映画日記 2022/02/05

しかしこれは、なんという……。

ウェス・アンダーソンの最新作『フレンチ・ディスパッチ ザ・リバティ、カンザス・イヴニング・サン別冊』は、ある意味で“完全な”映画である。自閉しているともいえる。「これは何の話?」とダイレクトに尋ねられたとしたら、返答に困る。何の話でもないのだ。しいて言えば3話(+1話)のオムニバスである。しかし全体を俯瞰したとき、これと言って明快な物事の筋道があるわけではない。濱口竜介『偶然と想像』のように、短編を並べて鑑賞することによって全体を貫くテーマ性が浮き上がってくるような構造でもない。

あらゆる画面には微に入り細を穿つディテールへの狂気じみた執念がある。しいて言えばそれこそがテーマである。ただし『フレンチ・ディスパッチ』は、画面にこだわった映画が陥りがちな、チマチマしていて断片的で映画的運動を欠いた紙芝居に堕することなく、鮮やかで優雅な、時に意表を突く展開と編集によって1分1秒たりとも弛緩することはない。

だから見ている最中まったく退屈はしない(というか、マシンガンのように連射され続ける情報量に振り落とされないよう必死でそれどころではない)のだが、見終わってこれはいったい何だったのかと思ってしまう。これまで我々が目にしてきたウェス・アンダーソン映画の中でも、これほど“ウェス・アンダーソン映画的”な映画があっただろうか。彼の置きたいものが彼の置きたい場所に置かれており、彼の撮りたいものが彼の撮りたいように撮られている。なぜこの役者が配されているのか? なぜこのような短編なのか? なぜこのようなモチーフを? 尋ねることに意味はない。意味はないということを映画を見終わった我々はすでに納得している。それはつまり作品の勝利である。

『フレンチ・ディスパッチ』を見ていて思い出したのは、スティーヴン・ミルハウザーという小説家の名前だ。幻想的、ロマン主義的な短編で知られる現代アメリカの作家である。ミルハウザーの小説のひとつの典型的なパターンとしては、からくり人形の制作とか精緻な技術を要求される芸能を生業とする一風変わった職種の人間が、その磨き上げられた技能によって名声を集める。しかし已むことのない芸の追及は、次第に周囲の人間が理解できる範疇を突き抜けて行ってしまう。大体こんなところである。そしてミルハウザーの短編そのものも、目がくらむような豊富なディテールの描写に満ちている。また、筆致はしばしばディテールの記述に終始し、出来事の推移という意味でのお話は語られないことも多い。作風はちょっと異なるにせよ、ミルハウザーを読んだことのある人なら僕がどういうところに類似を見出しているか理解してもらえるはずである。

ウェス・アンダーソンの映画というのは、脚本に還元されるような意味での「お話」に依存していないことが多い。しかしその画面は次に何が起こるか常に予想がつかず、映像的快楽とサスペンス、コミカルなリズムと優雅なサプライズによって映画そのものはずっと緊密さを維持し続けている。ウェス・アンダーソン自身、自分の映画が明確なストーリー性を欠いていることには自覚的なようであり、グランド・ブダペスト・ホテルは意識的に明快な道筋を持ったストーリーを提示する作品として完成させたらしい(といったことをインタビューで語っている)。

しかしそれにしても、『フレンチ・ディスパッチ』ほどアナーキーな作品は過去なかった。その画面は隅々まで美しい統制によって制御されているのだが、「映画に話など必要でない」と宣言しているようにすら見えるという意味で、ウェス・アンダーソン的アナキズムの極致であり、だからウェス・アンダーソン史上最もウェス・アンダーソン的映画と言うべきではないだろうか。撮りたいから撮り、置きたいものを置き、並べたい順に並べる。手段と目的が完璧に合致している。語弊のある言い方かもしれないが、この作品はやはり芸術(ファイン・アート)と呼ぶべきものに近い。

個人的な不満点がないわけではない。3番目のストーリーにおいて、誌面に掲載された漫画という体で事件の推移を語るアニメーションシークエンス、あそこはむしろ本気で実写のアクションとして……というか活劇として撮ってくれたらと願わないではない。できるはずだ。しかしまあ不満といったらその程度のものである。無いものねだりはともかくとして、最初に言ったようにこれは(ウェス・アンダーソンという競技の中で)完全な映画だ。しかし、受け入れられる人と振り落とされる人ときっぱり分かれるだろうという気もしている。僕はと言えば、ここまで来たらどこまでもついていこうと改めて決心した次第である。

ところで本作とは関係ない話だが、最近『グランド・ブダペスト・ホテル』のことをよく思い出す。というか、あの映画が語っていたことは案外重要な話だったな……ということが後からじわじわと染みこんでくるように痛感されるのである。これはむしろ、作品が参照しているステファン・ツヴァイクの著作からもたらされた要素かもしれない。
水が低きへ流れるごとく、どんどん危うい方向へ進みつつある世界のある傾向に対して、自分の中での理性と矜持の領域を守ろうとする闘争の物語として、あの映画はある。SNSなどを見ていると特に上の世代の人間に対して絶望的な気分にさせられることが多い(見なければいいのだが、なかなかやめられない。SNSは依存性がある慢性の毒である)。憤懣やるかたない気分の中で、自分にとっての理性の領域だけは何としても死守しなければと自分自身に言い聞かせるとき、あの映画のことが頭によぎるのである。

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