ヒッチコック的サスペンスと『’TEMAKI’ Mind Reading』の関係

批評からちょっとしたエッセイまで、世の中に映画にまつわる題材を取り扱った本は山のようにある。その中で最も有名と言って差し支えなさそうな本が、トリュフォー/ヒッチコックの『映画術』である。

これはフランスの映画批評家であり、のちにヌーヴェルヴァーグの代表的旗手として自らも映画監督となるフランソワ・トリュフォーが、敬愛する映画作家アルフレッド・ヒッチコックの全作品について詳細にインタビューを行った書籍である。この本はヒッチコックという作家の映画史における評価を変えた。『サイコ』が公開された当時、アメリカの大半の批評家は、この俗悪なモチーフを扱ったB級実録犯罪映画がアメリカ映画の歴史に太文字で名を刻むことになるとは考えもしなかった。いまアメリカ映画の歴史を記述しようとしたとき、『サイコ』を含む数々の輝かしい作品群を欠いた文章は論外と見なされるだろう。

『映画術』の重要性は誰の目にも明らかであり、映画に興味のある多くの人々や、エンターテイメントを研究しようとする人々によって読み継がれてきた。奇術の分野においても、演技のエンターテインメント性やプレゼンテーションへの志向が強い著述家にはしばしば引用される一冊となっている。個人的な観点から、この本がよく引かれる理由は主に2つあると思っている。ひとつは有名だから。もうひとつは、読めば誰でも“それらしい”ことが言えるからだ。

いわく、マクガフィンとは○×……サスペンスとサプライズの違いは……観客の意識の誘導……

ヒッチコックの名は現代においては一種の権威となっているし、きちんとした論拠があることを示せる。読む側や聞く側としても何となく説得された気分になり、興味深いテクニックを学んだ気になれる。

だがヒッチコックの技巧の真似をしてもヒッチコックほどうまく行かないことは、ヒッチコック以降の映画たちが証明している。ガス・ヴァン・サントの苦々しい失敗作を思い出すまでもなく、ヒッチコック的な撮り方の誘惑に屈しきれなかった映画たちは、「ヒッチコックっぽさ」という粉飾をまといながら、しかしヒッチコックにはなりきれないという単純な事実に到達したものばかりであり、その「なりきれなかった部分」に固有の魅力を宿した作品や作家だけが、固有の価値を得るに至ったのみだ。黒沢清は「ヒッチコックの真似だけはしないと決めている」と書いているし、同じ文章の中で、ヒッチコックの技巧が、グリフィスのカットバックのように「真似すれば誰でも同様の効果を得られる」もののように見えながら、その実小津のローアングルのように「小津っぽいという感覚しかもたらさない」ものであることを指摘している。興味深い意見である。

思うに、ヒッチコックの『映画術』とはそもそも批評的に読むべき本なのだ。監督が自身の映画について最もよく知っているとは限らないし、常に正直であるとも限らない。ヒッチコックのような自身のアイコン性やコマーシャル性を強く意識していた作家は特に曲者である。また、画面を見れば誰でもたちどころに理解できるような技巧だけではカバーしきれない領域にこそ、彼の映画の真の豊かさは潜んでいるのだとも思うが、映画論が本題ではないから、その話はここでは立ち入らない。

なぜヒッチコックの話を今更始めたかというと、レクチャーノート『MENTAL NOTE』収録の『’TEMAKI’ Mind Reading』について話したかったからだ。あのトリックは何よりも「当て方」が重要な手品なのだが、このクライマックスについて筆者は「正統な意味における(ヒッチコックが言ったような)サスペンスを醸成」するなどと記述──わざわざ「正統な」などという言葉遣いをしてみせているところに何らかの意図が透けて見える──している。努めて簡素な説明を心がけたつもりのノートだったからそれ以上くどくどした説明を書き連ねなかったのだが、説明不足だし、何よりこれでは先に槍玉にあげたような「それらしい」顔でヒッチコックを気紛れに引用する書き手と変わりがないので、ここで改めて弁明をしてみようと思い立った次第である。

ヒッチコックの言うサプライズとサスペンスの違いは単純に説明できる。例えば映画の中で爆弾をいきなり爆発させてみれば観客は驚く。ただ、そのショックは長続きしない。しかしながら時限爆弾がセットされたところをあらかじめ観客に見せておき、その近くで何も知らずに会話する登場人物たちを見せれば、観客のハラハラした感情はずっと持続する。だいたいこういう説明である(※1)。おそらく『映画術』全ページを通じて、「マクガフィン」に並び頻繁に引用されているのはこの部分だろう。中には単に結末が伏せられているというだけのことにも、これが「サスペンス」を作りますとか説明されている場合もある。それよりはちょっと上等な例だが、SNSで「100日後に死ぬワニ」が話題となっていた頃に、これは正にヒッチコックが言っていた「サスペンス」なのだと解説するツイートがバズっていた。だが筆者はこの見方には与しない。

ヒッチコックが語る「サスペンス」というのは、まず何よりもヒッチコックが扱う「映画」というメディアの特性に大きく依存している。トリュフォーが『映画術』で指摘しているが、ヒッチコックの映画では時間が伸縮自在なゴムのように処理されている。暴漢に襲われながら、床に転がるナイフに必死で手を伸ばすその数秒はまるで永遠のように感じられるし、あるいは編集によってそれこそ奇術のように時間がつままれる。きわめて自在に時間を処理してみせる手際はヒッチコックの映画を象徴する要素のひとつであり、『北北西に進路を取れ』とか『知りすぎていた男』のような巻き込まれ方サスペンスにおいて頂点を極め、『ロープ』のような実験作においては反転した応用を見せる。

この時間処理はもちろん、作り手によって完全に制御された時間の流れに観客を付きあわせる映画というメディアの構造を利用したものだ。演劇や生演奏の音楽などもそうとは言えるが、こういった生もののパフォーミングアートは時間を「編集」しているわけではない。

ヒッチコックの時間処理が、彼の提示する「サスペンス」に何をもたらしているか。それはもちろん、想像しうる終着点へたどり着くそのタイミングが、次の瞬間にいきなり訪れるかもしれないし、まだずっと先かもしれないという不可知の感覚である。そのタイミングは映画の作り手に完全委任されていて、観客はコントロール不能であるというメディアの特性による構造が、ヒッチコック的なサスペンス感覚に寄与しているのだと言っていい。

これは単に結末が伏せられているとかいう状況設定とは全然次元の異なるものだし、「100日後に死ぬワニ」のようなきっかり予告されたXデーの到来とも少し異なる(※2)。

『‘TEMAKI’ Mind Reading』のクライマックスにおいては、観客が選んだ可能性のあるカードが読み上げられる順番をほかの観客に委ねることで、前述したような「サスペンス」に似た感覚が再現されている。文字通り、「当たり」のカードが到来するタイミングはその場にいる誰も事前に察知できない。カードを選んだ観客も、カードを読み上げる観客も、そしてとりもなおさず演者自身も。演者がそこに関与できないということも重要である。なぜなら彼/彼女は、このサスペンスの作者であることも確かだが、同時にその当事者であり登場人物でもあるからだ。演者を含む誰にとってもコントロール不能な「その瞬間」は、しかし必ずいつか訪れ、それを演者は見逃さず指摘できるかという分かりやすい「成功/失敗」が予期されている。ここまでお膳立てをして我々はようやく、ヒッチコックという輝かしい名前を引く権利を得るのではないだろうか。

しかしながら、このクライマックスもあくまで完璧な意味におけるヒッチコック的サスペンスとまでは言いがたいことを最後に指摘しておきたい。ヒッチコックが上げた爆弾の例などに典型的だが、彼の映画はその多くの場面において「裏で進行している出来事(時を進める時限爆弾)」と「表で進行している出来事(たわいもない日常的な会話)」という二重性がひとつの画面の中に共存している。この二重性は極めて重要なヒッチコック的モチーフとして画面に立ち現われ、あるときは意識と無意識、あるときは建前と本音、あるときは社会的ペルソナと恐ろしい正体といった風に様々な変奏を見せる。ヒッチコックがついでに言及した「結婚の話を切り出せない女性」と男性とのやり取りといった例にも、この二重性は確認できる。『’TEMAKI’ Mind Reading』のクライマックスは、あくまで時間処理の観点からヒッチコック的サスペンスにアプローチした例に過ぎない。

完璧な意味におけるヒッチコック的サスペンスというものは、やはりヒッチコックの映画の中にしか存在しないのだ。先人の轍を踏み、単純極まりない事実へ到達したところでこの文章を終わりとする。

※1 ちなみにヒッチコックいわく、このテクニックは色々な状況に応用できる。結婚を申し込もうと思っている女性が、男性との会話の中でなかなかそれを切り出せないといった、暴力や犯罪などとは縁遠い状況にも。ということはきっとカード当てにも応用できるだろう。……本当に?

※2 またヒッチコック的サスペンスにおいて予期される終着点は常に「助かる/破滅する」といった分かりやすい「成功/失敗」に分岐する可能性をもって提示されることも指摘しておくべきだろう。その点からも「100日後に死ぬワニ」のような約束されたカタストロフ構造とは趣を異にする。

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映画日記 2022/02/05