映画日記 2022/01/16

これぐらいは見ておかねばと思ってジェーン・カンピオンの『パワー・オブ・ザ・ドッグ』を見た。力強いショットと胴の据わった演出に確かにこれは並大抵のものではないなと思ったのだけど、特に前半はどちらかというとテーマに映画が従属しているような気もした。
いわゆるトキシックマスキュリニティを西部劇的フォーマットの中で内省的に描く映画なのだが、そもそもベネディクト・カンバーバッチはそういう臭いのある俳優では全然なくて、しかしこれが配役の失敗ということではなくむしろ段々と彼の人間性の複雑さのようなものが露呈してくる作りになってくる。彼と対比されて置かれているコディ・スミット=マクフィーと併せ、かつ同性愛的な仄めかしも含めてこの2人の男優は奇妙な色気のようなものがにおい立ってくるように撮られていて、そのあたりの雰囲気は独特の感触を残す。
これ、音楽がジョニー・グリーンウッドなのだけど、西部劇的な荒涼とした光景と弦楽器が不穏に迫ってくるようなスコアの取り合わせを見ると誰しも『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』を思い出さずにいられないはずだ。こういった映画の比べ方は不公平で、避けるべきなのかもしれないが、めちゃくちゃ上手いものの「テーマに映画が従属」といった余地をそこに見ないでもない本作に対して、『ゼア・ウィル~』の、映画そのもののざらざらした手触りだけがそこに屹立しているような凄みというのをどうしても思い浮かべてしまう。『パワー・オブ・ザ・ドッグ』はこのままいけば今年のオスカー作品賞を獲りそうな勢いだが、そういえば『ゼア・ウィル~』は第80回アカデミー賞の作品賞争いで『ノーカントリー』に敗れたのだった。

最近ちゃんとリドリー・スコットの映画を見ておきたいなと思って『ハウス・オブ・グッチ』を見た。グッチというブランドにおいていかにグッチ家の血筋が絶えていったのかという崩壊の過程をブラックコメディ的戯画化によって描く、有体に言うと下品な金持ちのお家騒動の話。「全編にわたってミーム・ポテンシャルに溢れている」的な感想を事前に目にしており、実際見てみたら確かにそういう映画だったのだが、訛り(?)を強調するようなセリフ回しといいちょっと過剰に感じないでもなかった。レディ・ガガもジャレッド・レトも「頑張っているなあ」という印象が先に来てしまうのである。アル・パチーノはさすがに上手い。言うまでもないが。
リドリー・スコットについて、僕自身は好きな映画とそうでもない映画の差が大きい。近作で言うと、皆が好きらしいオデッセイとかは全然好きではないし、あまり評価が高くなさそうなエイリアン:コヴェナントなんかはめちゃくちゃ好きだ。この人はよく映像派と言われ、本作の感想でもバチバチに決まったショットを賞賛する声なんかを見かけるのだが、僕はショットの強度というのは前後との繋がりによって決定すると思っているので、その意味であまり画が強いという印象は受けない。少なくともリドリー・スコットの映画を見るときそこを楽しみにしてはいないという感じ。

その意味においては、いくら全体的に緩い映画であっても、続けざまに見たイーストウッドの『クライ・マッチョ』のほうが、さすがに所々ショットが決まっている。ただこれはさすがに緩い。一時期猛烈にイーストウッドに狂った時期のある自分でさえこれはちょっと緩すぎるのではないかと思える演出とか、よくこんなシーンを自分が演じるものとして演出できるよなと思わされる場面など多々あるのだが、しかし最晩年に入って突き抜けるところまで突き抜けた“軽み”の境地とか、まさに映画らしい呼吸としか言いようのない風のようなものが吹き抜ける瞬間などもちらほらあって、これはこれで良いのだ、と一観客としてある種の甘さを引き受ける気にもなってくる。一時ファンになった(惚れた)弱みである。
前作『リチャード・ジュエル』はけっこう見ごたえのある映画ではあったが、女性記者の描写が不誠実というか蔑視的ではないかと問題視された。その当該箇所の評価についてはいったん置いておくとして、その後にリチャード・ジュエルを疑っていた彼女が心変わりする場面の「えっ、これでいいの?」という処理の割り切り方はちょっと凄いものがあった。全体に引き締まった映画の中でふとああいうことをやられると老境に入った演出の凄みみたいに見えなくもないのだが、今作は「これで済ませちゃっていいのかな」などということを考えているとあっという間に映画に置いていかれるほどそういう場面が頻出する。少なくとも僕はそう感じた。
割り切りと言えば、イーストウッドが馬に乗る場面におけるあからさまなスタント吹き替えの割り切り方もなかなかのものだった。その割り切りがイーストウッドらしいと思って笑いもしたが、同時に一抹の寂しさを抱かなくもなかった。
まあ、イーストウッドは緩い映画と鋭い映画を行ったり来たりしながら作品を撮ってきたようなところがあるので、次にどんなものを撮るのかは分からない。それにしても、『15時17分、パリ行き』などを肯定的に捉えた自分でさえこれはちょっと緩かった。というかそもそも次があるのだろうか。イーストウッド映画は毎回それを考えさせられる。

ところで最近Fire TV Stickというのを買ってみた。アマプラとかネトフリがテレビで見られるようになる代物らしい。自分の集中力は結局のところ媒体に依存しており、一番集中が保つのが映画館のスクリーン、次にテレビ画面、最後にパソコン画面であることが分かっている。これを買うことで、もうちょっと映画に時間を割ける生活が送れればいいのだけど。

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