「演技の演技」もしくは「演技に見えない演技」──『ドライブ・マイ・カー』

 179分という触れ込みに最初はやや尻込みしつつも、ファーストカットの美しい不透明さとそこで霧島れいかによって語られている「お話」の奇妙さとその声の生々しい魅力に目と耳を奪われ、それから淡々としていながらも無情に突き進んでいく展開にどこか魅入られたように没入していると、普通の映画と比べるとずいぶん時間が経ったあたりでオープニングクレジットが画面に現れる。しかしその頃にはこれがこの映画のリズムなのかということが自然に了承され、あとはそのテンポに身を任せておけば、寡黙な運転手による長旅のドライブに似た心地良いリズムにすぐ馴染むことができる。長いと言えば長いが、そもそも遠距離まで到達することを目的にしているのだからこれだけの時間がかかるのは当然のことだ。

 濱口竜介の新作『ドライブ・マイ・カー』は、村上春樹の60ページに満たない短編と、その関連作と、チェーホフの舞台と、オリジナルのアイデアとをパズルのように組み合わせながら、しかしそれらのどの要素ひとつとっても揺るがせにしがたい完成度で架空の舞台劇が完成するに至る様を描ききる力作である。そこでは様々な要素が混在しながらひとつの大きなうねりのような構造を構成しており、それらすべてを言及し尽くすことは難しいが、僕なりにこの作品から受けた感銘を言葉にしてみたい。

「社会/日常の中で人が人に向けて何かを話すということがそもそも「演じる」ということではないだろうか?」と以前口にしたことがある。濱口竜介の映画を見たあと、僕の中に感想として湧き上がってきた言葉である。彼の作品に触発されるようにして浮かび上がってきたこの問いを分解し、より作家論的な言い方へ近づけていくと、つまり以下のようになる。濱口竜介の映画からは常に2つのテーマを見出すことができる。ひとつはコミュニケーションをめぐる問題であり、もうひとつは濱口竜介的な演技論についてである。前者はつまり、我々が互いに意思疎通することの困難さ、その限界、そしてそれでも言葉を尽くして何かを語ろうとする先に見えてくる可能性のことであり、後者においては、演技とは結局のところ何なのか、良い演技とはどういうことなのか、人が何者かを演じるときそこではいったい何が起こっているのかが問題とされる。
 そしてこれらのテーマは別々に問われているのではない。それらは俳優がテキスト/台詞/言葉を、生身の声を発することによって(あるいは時に手話の発話によって)実践的に問われているのであり、これら2つのテーマは画面の上では「同じこと」なのである。この2つ(1つ)のテーマは、濱口竜介の新作『ドライブ・マイ・カー』において、過去作同様あるいはそれ以上の精密さで深化させられ、十重二十重に検討され、やがてひとつの舞台演劇として完成形を取るに至るのだが、濱口竜介的な実践的問いとその回答は、ほかでもなく俳優たちの忘れがたい演技によって画面に刻まれているだろう。

「演技の演技」を映画において実践することはとても難しい。例えば、映画の中で「良い演技」とされるものが提示されたとき、しばしば人は本当にそれが果たして自分の目に「良い演技」として映ったかどうかという価値判断をいったん保留し、作品の中ではそれが「良い演技」とされているようだという解釈のほうをわが身に引き寄せて納得していることがないだろうか。あるいはこのことは「悪い演技」においても同様で、映画の中で「悪い演技」とされるものが提示されたとき、それは観客に「悪い演技」であるという「意味」を伝えるため誇張され破綻した演技であることが少なくない。「良い演技」にせよ「悪い演技」にせよ、そこに提示されたものは「演技“ということ”」のほうであり、この「演技“ということ”」と「演技」そのもののあいだの溝は存外深い。
『ドライブ・マイ・カー』において、このような嘘を観客は感じなくて済む。「良い演技」「うまくいっていない演技」「いっぱいいっぱいの演技」あるいは「演技を通じて役者同士のあいだに何か特別なことが起こる瞬間」が提示されたとき、我々はそれをまさにそのものであるかのように見ることができる。これはさりげなくも奇跡的な離れ業であり、映画という、演技という表現形式を通じてこそ起こりうる奇跡があるということを納得させるに足るものだ。
 そしてまた、舞台劇『ワーニャ伯父さん』が完成する前に最高の演技を達成してしまったために画面から退場せざるを得なかった岡田将生についても言及しておかなければならない。彼が西島秀俊に向かって見せる卓越した演技は、「演技の演技」と同じくらいかそれ以上に困難な「演技に見えない演技」というものだった。
 パンフレットによると、濱口竜介が原作短編である村上春樹の『ドライブ・マイ・カー』を読んで最も印象的だった部分は、以下の通りだそうである。

高槻という人間の中にあるどこか深い特別な場所から、それらの言葉は浮かび出てきたようだった。ほんの僅かなあいだかもしれないが、その隠された扉が開いたのだ。彼の言葉は曇りのない、心からのものとして響いた。少なくともそれが演技でないことは明らかだった。

 映画の中でこれに相当する場面は、原作から少し改変された形で終盤の極めて重要な1シーンとして据えられているが、ここにおける岡田将生の存在が観客に与える異質な衝撃はいったい何だろうか。見誤ってはならないのは、映画という媒体において観客が真に感動するのは、画面の中のキャラクターに共感し一体化したときではなく、むしろ「向こう側」からやって来た存在の異質さに震えたときなのである。ともあれ、この場面こそが肝だという監督の狙い通り、このシーンは映画の中でことによるとクライマックス以上の屈指の名場面となっているし、そこで披露される岡田将生の演技は、明らかにキャメラによって撮られた演技でありながらまるで「演技でない」かのような質感を放っていて、「演技」という極めて表層的な表現手段(人は目でその表面をなぞることしかできない)がもたらす奥深い深淵にめまいがするようである。岡田将生という俳優を熱心に見続けてきたわけでもない自分に失礼な言い方を許してもらうなら、これほどの役者とは思わなかったという驚きが、この場面の衝撃に輪をかけている。

 くどいようだがこれはまさしく「演技」の映画であって、台詞によって、言葉によって、テキストによって、身振りによって、演技によって人と人とが何をなしうるかということについての物語だ。それがチェーホフの『ワーニャ伯父さん』という舞台劇の完成をもって締めくくられるのは二重三重に納得がいく。ここでの韓国手話を通じたパク・ユリムの演技に触れた観客が、多言語演劇という不思議な形式に疑いをさしはさむことは最早ないだろう。

 あえて蛇足ながら最後に付け加えておきたいのは、この映画が3時間のあいだ観客を飽きさせることのない極めてスリリングな作品だということである。古典的な意味においてサスペンスとは「宙ぶらりん」のことであり、ヒッチコックによるとそれは犯罪や殺人などが絡んでおらずとも「プロポーズを口に出せるかどうか」などといったことで表現しうるのだそうである。何かが決着しないまま保留されていること、家福の内面、彼という人間が真に求めているもの、望んでいること、彼の心情そのものが宙ぶらりんにされているという意味において、『ドライブ・マイ・カー』は3時間かけてその決着に至る「サスペンス」と言うことができるかもしれない。これは移動する車という空間が、常にどこかここではない場所を目指して動き続ける過程そのものであることと決して無縁ではない(車内で行われているのが家福の本読みであることにも注目したい。死者が残すのは断片的な虫食いの記憶(記録)でしかなく、その余白は生きている我々が自分の力で埋めていかなければならない)。
 実際スリルに満ちた映画的な細部は物語のそこかしこに認めることができる。それは多くの場合、画面に「映されることのないもの」によって際立たせられる。パンフレットで金原由佳さんが指摘している鍵をめぐる解釈などその最たるものだし、オーディションの場面において岡田将生の演技の果てに画面外で転がる椅子などもこれに当てはまる。

 しかしながら僕が本作で最もスリルを感じたのは、やはり岡田将生のあの演技に至る瞬間だった。やや斜めの位置から西島秀俊/岡田将生の顔面を捉えた切り返しが、じりじりと役者同士のPOVに近い位置に迫っていき、ついにキャメラが一段と「深い」位置に、実際に2人の役者が後部座席に乗っていては撮りえない位置に、岡田将生の顔面クローズアップに正対する位置にまで切り返すその瞬間には、並々ならないスリルがある。これはやはり映画的なサスペンスなのである。

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