三池崇史『初恋』のどこに感動したか

あなたは三池崇史『初恋』のどこに感動しただろうか。まず役者に感動した観客がいただろうと思う。この役者はこんな顔をするのかとか、この人がこういう役をやっているところを見たかったのだ、と膝を打って感動した観客がいるはずだ。また、例えばベッキーをさらうために雇われた鉄砲玉というような端役に至るまで、その役に適していてなおかつ印象深い顔立ちをしているといった風に、「適切な顔選び」ができている娯楽映画の心地よさに感動した観客は少なくないだろう。観客によっては、各キャラクターの躍動を際立たせる、見せ場本位で書かれた脚本に感動したかもしれない。あるいはその脚本において、現在の日本映画では難しそうな「見せ場」を決して脚本段階でカットせず、その「撮れないシーン」を剛腕とも強引とも言える手法で「撮り切った」うえ、確かにその数十秒間をこそ映画がある閾値を超える瞬間、つまり「見せ場」として成立させてしまう三池崇史のあっけらかんとした態度に感動した観客もいるだろう(僕もその一人だ)。また往年のやり過ぎ感は後退したもののブラックで軽薄なユーモアの漂う、三池崇史作品の久々の人体損壊描写に感動した観客もきっといるだろうし、さらには、窪田正孝にぶっ飛ばされて気絶したのち路上で目覚めた大森南朋の背景にさり気なくうろちょろしている鼠、こういう邦画には珍しい細かくも行き届いた演出に感動した観客もいるかもしれない(これはもちろん、舞台となる街の空気感を醸成するため後から付け加えられたものだろう)。また、人生の悲哀と奇妙な幸福感と愛おしさとが交錯する踏切を舞台にした終盤のシーンをきちんと撮りきることのできる監督の確かな演出力に目を開かされた観客もいるはずだし、そして、このブラックなユーモアが際立つ暴力的な群像劇を、あんな引いたショットでさらりと終えることのできる、この三池崇史という映画監督の胆力と言うか勇気には、喝采を超えてちょっとした衝撃を受けた観客すらいるかもしれない。

ただ僕が最も感動したディテールを挙げるとするなら、それは塩見三省の義足である。病気から復帰したこのベテラン俳優については、『アウトレイジ最終章』などでは演技と発声にやや辛そうな印象を受けたものだった。『初恋』ではこのような生身の俳優が抱える肉体の弱点を、義足という描き込みを加えることで、血肉が通ったキャラクターの奥行きに転じさせることに成功しており、それゆえに俳優の肉体──それは俳優が生きてきた時間の積み重ねそのものと言える──はかえって説得力を放ちながら画面に焼き付く。このような表現は、最小の手数で最大の結果を得る映画の演出というものについてよく理解し、なおかつ役者への深い愛情に溢れた三池崇史という監督だからこそできることではないだろうか。

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