ノーラン、TENET、そしてシャマラン

ダンケルクを経て今度のノーランはスパイアクションものだというので、ジャンル映画に接近しているのは良い傾向だなと思いつつそれなりに期待もしてTENETを見てきたが結論から言うと非常にくだらないと思った。退屈な理屈をこねまわして画面が追い付いていないというノーランの悪癖はダンケルクで軽症化したかと思いきや相変わらず全開だし、会話のシーンが全然まともに撮れていない。というか、常に映画の一定の時間を占有しなおかつ作品にとって非常に重要な意味を持つ、人と人とが会話というアクションを交わすシーンにおいて、この監督はほぼ何もしていないに等しい。映画としての評価を置いといてもSFとしてじゃあ抜きんでているかと言うと細部が雑。スパイアクションへの憧れに満ちているという触れ込みながら肝心の見せ場もまずい。ひとつ挙げると、実際に事故を起こして撮影したということで公開前から話題になっていた飛行機が建物に激突するシーンも、勢いよくと言うよりむしろ怪獣映画を思わせる緩やかな突進はなかなか意外だったし迫力があるなと思ったものの、破壊される建物の部分がいかにもこのシーンのために突貫工事で付け加えたという感がありありと画面に表れていて、ここも撮り方のまずさに起因している。全体に映像が面白くない。そもそも「逆行」という設定ありきの映画なのだからまず時間の逆光によって「視覚的に」どんな面白い演出ができるかということを事前に100個ぐらいアイデア出しして、それを活かすための物語を構成していくのが普通の映画作りのプロセスだと思うのだが、おそらくノーランにそういうことを思いつくセンスがない(念のため言っておくと視覚的な演出も多少はやっている。多少は)のと、「設定」は話の筋道を複雑化させるためにあるというノーランの誤った信念、というか思考バイアス的なものによって、この映画はこんなことになっている。それから役者の顔の選び方にセンスがない。気の利いたロングショットが撮れない。Twitterでは女性や主役である黒人俳優のキャラの扱いに苦言を呈する感想もあったが、これはノーランが白人男性中心的ということではなくてそもそも魅力的なキャラクターを描く才能が欠けているのであろうと思う。

実はTENETを見る前、「全員が2回見ることを前提に映画を撮っている」という批判的な感想をあらかじめ目にしていたのだが、これは2回見ないと分からないように作られた映画、ではなくて単に「ノーランという人が映画が下手」なのだと主張したい。映画というのは、ある時点から始まって強制的に一定の時間を経過させられ強制的にある時点で終わるという見世物である。映画監督の三宅唱は、あるインタビューで「映画の不条理や面白さというのは、人生が一回きりしかないことに基づいている」と語っていた(記憶からの引用なので不正確の可能性あり)が、その鑑賞において原則的に一回きりしか通過することができない映画という「装置」は、この原理的枠組みを足かせとも足掛かりともしながら、独自に物語を語る話法を発達させてきた表現形式と言える。その中で、観客にどの段階でどれくらい情報を与え、謎を残しておくかという裁量こそが、魅力的に映画を語るための能力として必須になってくる。

クリストファー・ノーランという人は、メメントのころからこの定時的な映画話法に一貫して挑戦しようと試みてきた人である。三宅唱が語ったような純粋に映画的とも言えるし古典的とも言える原則に基づいた映画の話法は、TVドラマの出現によって(わりと昔から)絶対的なものではなくなってきたが、ノーランはそういうものと違って映画史の文脈ど真ん中において映画の時制そのものに挑みかかろうとしているのであろうと思われる。

色々語ってきたが、ここまでの話は次の一言に要約できる。「映画の大原則を覆すなどという大それた挑戦をするには、ノーラン、お前は映画が下手」それしかない。僕はこの映画が好きだという人まで貶したくはないのだが、これが「大画面で見る醍醐味を堪能させてくれる映画の面白さ」だと思っている人には、もうちょっと面白い映画にいっぱい出会ってほしいという淡い期待を抱くのみである。

おまけにひとつ付け加えると、ノーランは映画における「サスペンス」を撮る才能が小さじ程度しかない。少なくともサスペンス的状況設定の手数が極めて少ない。サスペンスこそ映像によって伝達される情報量をいかに段階を踏みつつ捌くかがキモになる表現なので、さもありなんといったところではある。

さて、TENETを見た後のむしゃくしゃする感情に任せて、Twitterで9月28日にこんなツイートをした。

>技術が追い付いてない誇大妄想家タイプなら俺はノーランよりMナイトシャマランのほうが好きだ

生意気なつぶやきではあるがちょっとこれについて説明したい。僕はシャマランのことをよく、「物語というドラゴンに挑みかかるドン・キホーテ」のようだと喩える。いちおう誉め言葉のつもりである。彼の映画において実際の画面に映っているのは風車なのだが、しかしその勇敢さは呆れつつも感心もしてしまう。

例えば「世界の運命をかけた争い」があるとする。ブロックバスター映画にはよくある設定である。しかし台本にそう書いてあったとしても、映画の画面に「世界の運命をかけた争い」などというものは本来映りようがない。せいぜいいい歳こいたおっさん同士が殴り合っている程度のものであったりする。じゃあそれを、物語の要請する「世界の運命をかけた争い」にどのようにして近づけるか、というときに「演出」が要請される。映像の様々な技巧、テクニック、ギミック、目くらましを使って、上手に嘘をつくわけである。

しかしシャマランの映画では、そういった映像技巧がまるでないとは言わないが、その画面に映っているものはむしろ「世界の運命をかけた争い」だと信じているいい歳こいたおっさん同士がだだっ広いところで殴り合っている光景だったりする。物語と画面に落差がある。シャマランの場合は、不思議とそれが奇妙な愛嬌に転じるところがある。あるいは、逆説的にかえってそれが「映画的面白さ」に転じているような気さえする。そもそも社会と自分の内面をフィットさせることに失敗した狂人たちの物語だからかもしれない。シャマラン自身が物語というマジックを心から信じ切っている狂人だからかもしれない。決して、映画がめちゃくちゃうまい人だとは思っていない。ただ僕はやはり、ノーランの映画の「欠落」は致命的なものだと思いながらも、シャマランの映画の「欠落」はこれからも贔屓し続けてしまう気がする。

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